学習の森

安中市内指定文化財の詳細

旧碓氷峠鉄道施設


アプトの道起点

 旧碓氷線の沿線は、建設省(現:国土交通省)の「ウォーキング・トレイル事業」により、横川駅から熊ノ平変電所まで約6.3キロメートルが、遊歩道「アプトの道」として整備されています。コース中には、国指定重要文化財の橋梁やトンネル、建造物などが残されており、四季折々の周囲の自然と鉄道施設の組み合わせは多くの人々を魅了しています。
 アプトの道の起点は「碓氷峠鉄道文化むら」のすぐ北側にあります。
※アプトの道を自転車に乗って通行することはできません(押して歩くことはできます)。


丸山変電所(蓄電池室・機械室)

 アプトの道起点から約2キロメートル歩くと「丸山変電所」に着きます。丸山変電所は碓氷線の電化に伴い、長野県軽井沢町の矢ケ崎変電所(現存せず)とともに明治44(1911)年に建設され、翌年から運用が始まりました。変電所は当初、正面に向かって右が蓄電池室、左が機械室として使用され、後に新しい設備の導入に伴い蓄電池室は機械室、機械室は倉庫へ改装されました。
 丸山・矢ケ崎の両変電所は昭和38(1963)年のアプト式廃止に伴いその役割を終え、矢ケ崎は取り壊されましたが丸山は設備を搬出した後、現状のまま保存されました。
 その後、丸山変電所の建物2棟は平成6(1994)年に国の重要文化財に指定されました。平成13・14年には保存修理工事が行われ、外観と屋根は建設当時の姿に復元されました。
 変電所の内部は通常、公開しておりませんが、毎年10月20日の「近代化遺産の日」前後に1週間程度、特別に公開し碓氷線の関連資料などを展示します。


碓氷第三橋梁(碓氷川橋梁・通称「めがね橋」)

 旧碓氷線にかけられた18基の橋梁の中で最大であり、また国内でも最大級のレンガ造4連アーチ橋です。橋欄長91.06メートル、径間長16.5(補強前18.29)メートル、高さ31.39メートルの規模を誇り「めがね橋」の名称で親しまれています。間近から見上げると、その大きさに圧倒されることでしょう。
 この橋は、碓氷線の計画に深く携わったイギリス人技師、ポーナルによる設計で、2百万個以上のレンガが使用されたといわれます。アプトの道を歩くほか、国道からも上ることができ、橋上からは四季の山々のほか北側には碓氷新線の跡を望むことができます。


碓氷第六隧道

 旧碓氷線につくられた26所のトンネルのうち、546.17メートルと最長のもので入口(横川側)はレンガ、出口(軽井沢側)は切石造となっています。トンネル全体がS字にカーブしています。
 トンネルの中ほどには2ヶ所、建設時に工期短縮を図る目的で中央から掘り進める際にあけられた複数の横坑がみられます。また、天井には排煙用の穴があけられています。


熊ノ平変電所

 アプトの道終点にある熊ノ平変電所は昭和12(1937)年、電化された碓氷線の輸送量増加に伴う電圧降下に対応するため、建設されました。鉄筋コンクリート造2階建で、丸山変電所とは異なり平面的な構成や簡素な意匠が採用され、鉄道用変電所の発展過程がよく表されています。
 もともと、この場所は明治26(1893)年、上下線が行き違いするための停車場として開設され、同39(1906)年に熊ノ平駅に昇格したものです。しかし、アプト式の廃止と横川―軽井沢間の複線化によって昭和41(1966)年、信号場に降格され、また新線下り線の工事に伴い熊ノ平以西の構造物は、一部を除いて撤去されました。そして、平成9(1997)年の碓氷線廃止とともにその役目を終えました。
 熊ノ平駅構内は昭和25(1950)年6月、山崩れによって職員官舎が流されるなど、50名が亡くなる大災害に見舞われました。現在、その殉難現場には犠牲者をいたむため母子像が建てられています。
 熊ノ平変電所につきましては内部公開はしておりません。


碓氷第十三橋梁(中尾川橋梁)

 アプト式廃止に伴い、熊ノ平以西の構造物の多くは取り壊されましたが、碓氷第16隧道出口から碓氷第13橋梁の区間については難を逃れました。中尾川にかかる第13橋梁は、レンガ造5連アーチ橋で橋欄長51.7メートル、径間長7.3メートル、高さ10.1メートルで、現存する旧碓氷線の橋梁としては第3・第6に次ぐ規模です。
 現在はだいぶ、土砂によって埋没していますが、かつて、国道が橋の下を通っており、第1・第4径間(最も横川側と、軽井沢側から2番目のアーチ)を車両がくぐり抜けていました。

 旧碓氷峠鉄道施設は、安中市松井田町横川と長野県軽井沢町までの碓氷峠越え区間(約11.2キロメートル)に現存する橋梁や隧道などの建造物から構成されています。旧碓氷線は、最大66.7パーミル(1,000メートル進む間に66.7メートル上がる、もしくは下がる)という急勾配に対応するため、ドイツの山岳鉄道で用いられていたアプト式が採用され、明治26(1893)年に開通しました。

 国内初の近代化遺産として、第2~第6橋梁の5基が平成5(1993)年に、翌年には第1~第10隧道の10所と旧丸山変電所2棟が国重要文化財に指定されており、平成30(2018)年8月17日には新たに第7・第13橋梁の2基と第17隧道の1所、熊ノ平変電所1棟などが追加指定となりました。

 急勾配を克服するために採用されたアプト式でしたが、輸送力に乏しいことが弱点でした。そこで明治45(1912)年、国内でも早い段階で電気機関車による運転が始まりました。これにより、明治44(1911)年の蒸気運転末期に126トンだった最大牽引トン数は、アプト式電化末期の昭和33(1958)年には約3倍の360トンにまで増強されました。ちなみに、高崎-横川間の電化は昭和37(1962)年のことなので、これよりも半世紀も前のことになります。

 昭和30年代になり、いわゆる高度経済成長期に入ると、いよいよ輸送力不足や車両・施設の老朽化が大きな問題となってきました。複数の案が検討された結果、アプト式に頼らない専用補助機関車による粘着運転(=摩擦に頼った一般的な運転方式)による新線が、昭和38(1963)年8月に開通しました。そして同年10月、約70年の長きにわたり近代日本の発展を支え続けたアプト式碓氷線は、静かにその役目を終えました。現在、この線路跡のうち横川から熊ノ平までの区間は遊歩道「アプトの道」として整備され、多くの観光客に親しまれています。

旧碓氷峠鉄道施設
国指定重要文化財
安中市松井田町横川・坂本 地内

安中中宿の燈籠人形・中宿糸操燈籠人形保存会

安中中宿の燈籠人形の画像
安中中宿の燈籠人形の画像

 中宿地区に伝わる糸操燈籠人形(いとあやつりとうろうにんぎょう)は、明暦(めいれき)2・3年(1656・7)ごろから始められたと伝えられ、諏訪(すわ)神社の例祭の際に行われていた農民芸能です。昭和4年を最後に途絶えていたものを昭和28年に復活しました。昭和40 年、ドイツのミュンヘン人形博物館に出品し、昭和43年には国立劇場に出演しました。昭和52年には国重要無形民俗文化財に指定されました。
 元々燈籠人形は竹や籐で骨組を作り、それに和紙を貼り、中が透けるように菜種油と蝋を混ぜた絵の具で色つけをして、人形の腹の中に回転する豆カンテラを灯すものです。頭・手・足は型があり、これに和紙を水貼りして乾燥させて木枠をぬいて作ります。元々は夜間に演じられていました。人形を演じるときは舞台を設け、間口4間、奥行き4間半、前床の高さ5尺に作ります。前床を3尺、後床を2間板はりし、中央2間は土間とします。後床に前から転額、無双連額、巻き上げ幕、無双連額、遠見の順に5段に背景をしかけ糸で開閉させます。前床と後床の中間の土間に前床と同じ高さの台を置き、框をのせてその上に人形をのせます。人形にはそれぞれ所定の黒絹糸を取り付け、舞台の天井に取り付けた框につり、そこから糸を土間におろして人形を見上げながら操ります。多いものでは十数本の糸が1つの人形につくので操る人数も数人必要になり、操作には熟練を要します。
 演目は俵小僧力自慢、馬乗り小僧の籠抜け、三番叟、安珍清姫があります。このうち、馬乗り小僧と安珍清姫の人形は、ふるさと学習館2階に展示されています。

安中中宿の燈籠人形・中宿糸操燈籠人形保存会
国指定重要無形民俗文化財
安中市中宿145(中宿公民館)

妙義山

妙義山の画像

妙義山は安中市・富岡市・下仁田町にまたがり、白雲山(1,081メートル)、金洞山(1,104メートル)、金鶏山(856メートル)の三山で象徴される表妙義と、谷急山(1,162メートル)、烏帽子岩(1,105メートル)、赤岩岳、丁須の頭、御岳などの山々で構成される裏妙義とを総称しての呼び名です。妙義荒佐久高原国定公園の一部となっています。なお、名勝の指定範囲は妙義山の全体ではなく、安中市分は金洞山付近のおよそ40ヘクタールほどです。
 妙義山は約700万年前に形成され、その後の浸食・風化により険しい斜面となり、多数の奇岩をみることができます。奇勝奇岩石門群が形づくる裏妙義山系には中木川をせき止めて造られた妙義湖があります。

妙義山
国指定名勝
安中市松井田町五料・富岡市・下仁田町 

安中原市のスギ並木

安中原市の杉並木の画像

 江戸時代、街道には一里ごとに塚が築かれ、通行する人を風や日差しから守るために並木が植えられました。中山道の杉並木である安中原市の杉がいつ植樹されたかには、3つの説があります。
 1つは慶長9(1604)年説で、このころ各街道の改修が命じられました。次は元和(げんな)元(1615)年説で、高別当の人が杉の苗を植えているところに中山道を旅をしてきた人が大坂落城を知らせたということです。3つめは第6代安中藩主板倉重形(いたくらしげかた、藩主在位天和元(1681)年~貞享3(1686)年)が植えさせたという説で、これは第15代安中藩主板倉勝明が大坂勤番に赴く時の紀行である『西行紀行』の中に杉並木について「余(よ=私、ここでは勝明のこと)の祖先の倍樹するところなり。 -中略- 今に至る百年余」と書いてあることによります。
 実際のところ、今まで落雷等で枯死したものを伐採したところ、杉の年数はさまざまであり、枯れたものがあった場合は地元の人が苗を植えたと推測されます。
なお、スギ並木の数は天保15年(1844)には732本、昭和7年(1932)には321本で、昭和8年に国天然記念物に指定されました。現在は13本が残ります。

安中原市のスギ並木
国指定天然記念物
安中市原市字一里山(県道一本木平小井戸安中線沿い)

栄朝禅師木像

栄朝禅師木像の画像

栄朝禅師木像がある蓮華寺(れんげじ)は、宝治元年(1247)に栄朝禅師が開山しました。栄朝禅師木像は開山堂(かいざんどう)に祀(まつ)られていて、高さ108cm、座高70.6cmの寄木造(よせぎづく)りで、袈裟(けさ)をかけていますが、ひだがついており立体的に見えます。袈裟には金箔(きんぱく)や絵の具が残り、目には玉眼(ぎょくがん)をはめ込んでいます。鎌倉時代末期から室町時代ころの特徴をよく現している肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)です。

栄朝禅師木像
県指定重要文化財
安中市中宿甲789 蓮華寺

不動寺石塔婆

不動寺石塔婆の画像

不動寺仁王門前の参道西側に3基並んでいる異形板碑で、安山岩の自然石に板碑様式の仏種子や文字を刻んだものです。文字は南碑に「観応三年壬辰(1352年)円観見性敬白」などがあり、北朝年号を刻んでいます。異形板碑として有名です。

石塔婆
県指定重要文化財
松井田町松井田甲987 不動寺

松井田八幡宮本殿

松井田八幡宮の画像

松井田八幡宮本殿の建物は、江戸初期の建築でほかの建物はその後に補われたものです。本殿は桃山風の形式をよく伝えています。八幡宮の本殿は三間社流造りで、屋根は外部からは幣殿と連なり、更に拝殿に続いています。一種の権現造りで、神仏混淆を示す好例です。
建物の配置も仏教的であり、境内に八角円堂を有し拝殿は護摩殿と称されます。本殿と均衡のとれた大きさであるにもかかわらず、その前方に割拝殿を称する建物を備えています。また、本殿、拝殿の周辺に敷きつめられた敷石は、敷き方に特別な技巧をこらしてあり、後方の石垣の取方とともにめずらしい特色を有しています。

松井田八幡宮本殿
県指定重要文化財
松井田町新堀1497 松井田八幡宮

不動寺の仁王門

不動寺仁王門の画像

不動寺の仁王門は、間口6.05メートル、奥行3.5メートル、銅板葺、単層切妻造りの門で、蟇股欄間などに、よく桃山時代の作風を遺していますが、江戸時代初期に改築されたものと考えられます。平成4年に修復が行われました。

不動寺の仁王門
県指定重要文化財
松井田町松井田甲987 不動寺

松岸寺の五輪塔

松岸寺の五輪塔

碓氷川の右岸にある松岸寺には、2基の五輪塔があります。完形の方は上から「空・風・火・水・地」の各輪を「団・半月・三角・円・方」で表し、地輪(ちりん)に「正応(しょうおう)六(1293)年四月一〇日」の銘(めい)があります。一番上の空輪(くうりん)を欠く方は地輪に「正応六年三月一二日」の銘があります。この五輪塔は佐々木盛綱(ささきもりつな)夫婦の墓(供養塔)といわれていますが、佐々木盛綱は源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の死後、磯部に隠棲していたと伝えられます。

松岸寺の五輪塔
県指定重要文化財
安中市磯部4−4−27 松岸寺

聞名寺の笈

聞名寺の笈の画像

この笈(おい)は、時宗(じしゅう)の創始者、一遍上人(いっぺんしょうにん、延応元(1239)年~正応2(1289)年)が諸国を廻っているとき、弘安(こうあん)3(1280)年、板鼻に笈をとどめ寺を建てたという伝承に由来します。これは一遍上人の十二光筥(こうきょ)の第七にあたるもので現在、日本に残存する3個のうちの1つとされます。高さ約39cm、幅39.5cm、奥行き27cmの大きさです。笈の側面には格狭間(こうざま)をくりぬいてあります。蓋は欠損していましたが、笈を保存修理する際に愛知県称名寺の十二光箱を参考にして作りました。また、聞名寺の寺伝によれば、一遍上人が板鼻の伊勢徳定(いせとくじょう)の館に立ち寄り、時宗道場を開き、弟子の念称(ねんしょう)に布教にあたらせたのが聞名寺の始まりとされます。

聞名寺の笈
県指定重要文化財
安中市板鼻甲2101 聞名寺

短刀 銘綱家作 堀秀政帯

短刀銘綱家作堀秀政帯の画像

相州綱家(つないえ)作の刀には、天文(てんぶん)裏銘のものがあり、初代(しょだい)相州綱廣(つなひろ)の門下とも、兄とも伝えられています。綱家は、初代綱廣と同様に北条氏の刀匠(とうしょう)となり、小田原に移っています。この短刀の所持者である堀秀政(ほりひでまさ)は豊臣秀吉の宿将で近江国佐和山城を与えられ、のちに小牧・長久手の戦いや賤ヶ岳の戦いで功を上げ、越前国北ノ庄を与えられました。天正18(1590)年、小田原攻めに参加し陣没しました。この短刀は長さ9寸9分で反りは一分弱です。

短刀 銘綱家作 堀秀政帯
県指定重要文化財
安中三丁目 個人蔵

木彫地蔵菩薩立像 1躯

木彫地蔵菩薩立像の画像

上後閑満行寺(まんぎょうじ)の開山は深秀上人(しんしゅうしょうにん)、開基は源義国、中興開基は後閑(新田)伊勢守信純(のぶずみ)です。源義国は源義家の子で、京の都から上野国に流罪となったといわれており、義国の長男義重は新田氏の祖となり、次男義康は足利氏の祖となりました。後閑(新田)信純は義重の後裔で、富岡市の丹生城主でしたが、後に後閑城主となりました。満行寺は上後閑の榛名神社の別当寺(べっとうでら)で、本尊は木彫地蔵菩薩立像です。満行寺の地蔵菩薩立像は一木造りの立像で、藤原期(遣唐使の廃止から平家滅亡まで)の流れによって鎌倉時代に作られたものです。

木彫地蔵菩薩立像 1躯
県指定重要文化財
安中市上後閑1561 満行寺

満行寺木彫神像等 4躯

満行寺木彫神像等の画像

満行寺には本尊のほかに神像(しんぞう)3体、役行者像(えんのぎょうじゃぞう)1体、天部立像(てんぶりゅうぞう)3体が保存されています。いずれも一木造りであり、その手法から同時期につくられたものと考えられます。指定されている神像は修験者風男神座像(総高66センチメートル)、修験者風女神座像(総高さ55センチメートル)、童形立像(総高47センチメートル)の3躯で、元々は漆塗りであったと思われます。また、天部立像のうち、総高78センチメートルの完形のものが指定になっています。

満行寺木彫神像等 4躯
県指定重要文化財
安中市上後閑1561 満行寺

旧碓氷社本社事務所 1棟

旧碓氷社本社事務所の画像

明治11年(1878)に、萩原音吉・萩原専平(せんぺい)・萩原鐐太郎(りょうたろう)らは生糸の品質の安定と改良をはかるために、東上磯部村登城(ひがしかみいそべむらとじょう)に碓氷座繰精絲社(うすいざぐりせいししゃ)を設立しました。翌年加盟組合が増えたので、本社を原市に移転し、明治17年に碓氷社と改名しました。碓氷社の生糸は海外でも高い評価が得られ、明治13年のメルボルン万国博覧会や明治26年のシカゴ万国博覧会で表彰されました。明治38年に、桁行(けたゆき)10間(けん)、梁間(はりま)6間の木造瓦葺入母屋造(もくぞうかわらぶきいりもやづくり)二階建の事務所を新築しました。当初は東向きに建てられていましたが、平成3年に現在地に曳移転して保存されています。この事務所は養蚕農家の努力と碓氷社の繁栄を今日に伝えています。

旧碓氷社本社事務所1棟
附 棟札(むなふだ) 1枚、来賓(らいひん)便所 1棟、碓氷社事務所建築縮図(じむしょけんちくしゅくず) 1枚
県指定重要文化財
安中市原市二丁目10番16号 群馬土地株式会社

小野良佐栄重の墓

小野良佐栄重の墓の画像

小野栄重は、字(あざな)を良佐といい、宝暦13(1763)年に碓氷郡中野谷村の須藤家に生まれました。その後、親戚である板鼻宿の小野家の養子となりました。栄重は、少年時代から和算を好み、寛政元(1789)年、江戸の藤田貞資のもとで関流算学(せきりゅうさんがく)を修め、伊能忠敬(いのうただたか)のもとで測量・天文学を学び、海岸線の測量に参加しました。寛政9 (1797)年に故郷板鼻宿に帰り、和算塾を開き後進の指導にあたりました。享和3年、伊能忠敬の招きに応じて9ヶ月間海岸線の測量に参加し、文化6年(1806)にも、伊能忠敬の誘いで松井田宿で月食観測に参加しました。文化8(1808)年に恩師藤田貞資の遺命で関流数学師範の免許皆伝が伝達されました。天保2(1831)年に亡くなりました。

小野良佐栄重の墓
県指定史跡
安中市板鼻1915番地 南窓寺

五料の茶屋本陣 お西

五料の茶屋本陣 お西の画像

中山道の松井田宿と坂本宿の間の、五料村と横川村に2カ所づつ茶屋本陣が設けられました。五料村では、字平(たいら)に、山を背にして東西に中島両家のふたつのの大きな家構えが見えます。地元では「お西」、「お東」と呼ばれています。二軒で五料村の名主を勤め、天保7年からは1年交代で名主の仕事をしていました。「お西」の建物の中は大きく3つに分けられ、一番西側が茶屋本陣としての区画で、大名や公家などが利用しました。表の間、次の間、上段の間に分かれており、上段の間からは北側にある池や山を眺めることができます。また、明治11(1878)年9月には明治天皇北陸東海御巡幸のとき、御小休所となったので、そのときに改修をしました。建物の中央は村の名主としての仕事を行う区画で、北側と東側が住居としての個人的な空間でした。2階はさまざまな資料を展示していますが、階下が茶屋本陣の空間は壁で仕切られ、行き来できない造りになっています。

五料の茶屋本陣 お西
県指定史跡
松井田町五料564ー1 五料の茶屋本陣

横川茶屋本陣

横川茶屋本陣の画像

中山道の松井田宿と坂本宿の間には、五料村と横川村に茶屋本陣が2カ所設けられました。横川の茶屋本陣は、そのうちの1つで、碓氷関所のすぐそばに設けられたのは、江戸方面からきた大名などが服装をただすためと、碓氷関所を通過した大名などが旅装に改めるためと考えられています。また、武井家は古くから「矢の沢の家」と呼ばれ、地元では今もその名で通っています。また、代々横川の名主役を勤め、幕末の頃は坂本駅の助郷総代も兼ねていました。

横川の茶屋本陣
県指定史跡
松井田町横川609

千駄木遺跡

千駄木遺跡の画像

西野牧の下平地区の西端、千駄木(せんだぎ)橋のたもとにあり、巨石が覆いかぶさっています。ここは昔から、鹿の骨や角、土器片などが出土することで、地元の人々に知られていました。昭和47年、県道の改修工事に伴い緊急発掘調査が行われ、その結果、縄文時代前期から弥生、古墳、歴史時代の長い間にわたって巨石の下を利用した岩陰遺跡であることが確認されました。出土品は土器片・石器類、古墳時代や歴史時代の土師器・須恵器などでした。特に縄文時代後期の土器は信州(長野県)、とりわけ八ヶ岳山麓地方の影響を受けたものがみられ、文化圏を考える上で貴重な資料となりました。これらの出土品は4,000点以上にもなり、貴重な遺跡として保存の要望が高まったことから、道路改修工事の計画を一部変更して保存が決まり、続いて県指定史跡となりました。

千駄木遺跡
県指定史跡
松井田町西野牧16702ー1

五料の茶屋本陣 お東

五料の茶屋本陣 お東の画像

お東は西南を正面として、間口13間半、奥行7間、総2階建、切妻造りで、お西とほぼ同じ造りです。茶屋本陣が東西二軒隣合わせで並び建ち、しかも昔ながらの形態を維持していることは全国的にも珍しいことです。お東は明治天皇の御小休所にならなかったので、江戸時代の様式を残しています。なお、お東の2階は公開しておりません。

五料の茶屋本陣 お東
県指定史跡
松井田町五料566 五料の茶屋本陣

細野の彼岸桜

細野の彼岸桜の画像

細野の彼岸桜は樹高約19メートル、目通り4メートル、根元5.7メートル、枝張り約25メートル、樹齢500年余で樹勢旺盛です。
応永25年、称光天皇のころ、看覚法印開山の新義真言宗宝性寺の、奥の院の所有地に芽生えたものと伝えられます。その後、宝性寺は廃寺となりましたが、桜の南下には武井氏の祖先で、新平という人が諸国を行脚修行して、権大僧都の位を得た後、この地を適地と定め、寛政9年に百庚申を建てたと伝えられることから、庚申桜とも呼ばれます。

細野の彼岸桜
県指定天然記念物
松井田町土塩300

中木のさざんか

中木のさざんかの画像

目通り1.56メートル、根回り2.24メートル、枝張り東西13.4メートル、南北7.54メートル、樹高5.45メートルで県内第一の巨木です。推定樹齢は千年、樹勢はさかんで邸内の石垣上にあり、よく手入れがされています。花期はおおよそ11月から3月までで鑑賞者も多く訪れます。

中木のサザンカ
県指定天然記念物
松井田町五料甲2878

西広寺のツバキ

西広寺のツバキの画像

このツバキは関西の寺院にみられる「日光(じっこう)」種で、寺院の往来の際に移植されたと考えられます。「ケシツバキ」、「ユキツバキ」とも呼ばれています。樹齢は推定300年とみられ、高さ約6.5m、目通り1.2mです。花は真紅の一重唐子咲きで、花弁は5〜7枚です。ツバキの園芸品種のたどった系統の経路を研究するためにも貴重です。

西広寺のツバキ
県指定天然記念物
安中市安中3−21−25 西広寺

安中宿本陣古文書

江戸時代、街道宿場の本陣は、大名・公家・幕府役人などが宿泊したところです。中山道安中宿の本陣を勤めてきた須藤家は、安中宿の問屋も兼ねていました。安中宿本陣古文書は、この須藤家に保管されていた文書で、江戸から明治時代初期までの交通関係の文書、大名休泊帳(だいみょうきゅうはくちょう)、安中宿本陣をはじめとした関連の絵図などで、中山道の交通資料として欠くことできないものです。

三角の橋供養塔

三角の橋供養塔

慶長(けいちょう)15(1610)年、東上秋間村の磯貝伊豆守(いそがいいずのかみ)が同志20人とともに、秋間川支流の久保川に石橋をかけ供養したものです。橋の供養塔としては県内最古とされています。現在、石橋はありませんが、供養塔北側の旧道が当時の本通りといわれていることから、当時の位置を推定することができます。

恵宝沢の道標

恵宝沢の道標

延宝(えんぽう)6(1678)年、西上秋間村般若沢(はんにゃざわ)の真砂吉久(まなご・よしひさ)が榛名・妙義街道の道しるべとして建てたもので、県内最古の道標といわれます。当時は、現在よりも少し西のところに東向きに立っていました。「南無阿弥陀仏」という文字の脇に「これよりきたはるなみち これよりみなみみょうぎみち」と彫られています。

聖観音碑

聖観音碑

鷺宮(さぎのみや)字上平に所在する聖観音碑(しょうかんのんひ)は、扁平(へんぺい)な安山岩に自在・勢至・普賢の観音三尊が半肉彫りされています。年号や造立者は不明ですが、その建立は鎌倉時代末期以前という説もあります。高さは約
180センチメートル、碑の下部の幅66センチメートル、碑の中央の幅は75センチメートルです。地元では「おびんづる様」とも呼ばれています。江戸時代、碑の裏面を上にして近くの川(丸子沢)の橋として使われていましたが、馬に乗ったまま渡ろうとすると落馬するので、裏返して見たところ、観音三尊が彫られていることがわかったため、洗い清めて現在の場所に祀られたといわれています。

北野寺所蔵文書

北野寺所蔵文書

徳川四天王の一人である井伊直政の次男直孝は、幼少の時に下後閑村の萩原図書という人物に預けられ、北野寺の僧から学びました。成長後は徳川家康の命で彦根藩15万石の藩主となり、大坂夏の陣で戦功を上げたので、30万石に加増され、後に江戸幕府の大老を勤めました。このため、彦根藩井伊家からの新年の礼守賀状(れいしゅがじょう)、井伊直孝の書簡、井伊直弼(なおすけ)の賀状のほか、安中藩主内藤政森(ないとう・まさもり)の私信などが残されています。

熊野神社社殿

永禄(えいろく)2(1559)年、安中忠政(ただまさ)が安中城を築いた際に、鬼門の守護神として熊野三社を勧請(かんじょう)したのがその始まりといわれています。江戸時代は城下の総鎮守(そうちんじゅ)として地域住民の崇敬(すうけい)を集めました。その社殿は拝殿と本殿を幣殿(へいでん)により連結した形式です。本殿は三間×二間の大きさで、その七面の板羽目(いたはめ)の彫刻は室町時代風で深雅(ふうが)です。

萩原家所蔵文書

萩原家所蔵文書

萩原鐐太郎(りょうたろう、天保14(1843)年~大正5(1916)年)は、江戸時代、東上磯部村の名主総代を勤め、明治時代以降は13ヶ村の肝煎(きもいり)名主を勤めたほか、碓氷郡役所書記、碓氷郡長、群馬県会議員、衆議院議員、碓氷社社長を歴任しました。萩原鐐太郎は、萩原家に伝わる江戸から明治時代にかけて村民生活関係の文書、養蚕や碓氷社に関する記録など4,000点を整理して保管しました。

天竈朝陽・古賀錦山の碑

天竈朝陽・古賀錦山の碑の画像

これらの碑は元々別の場所にありましたが、国道18号松井田バイパス建設の際、現在の場所に移されました。

天竈朝陽(てんそう・ちょうよう、本名:松本安二郎)
若くして大阪の中井竹山に経書を、ついで京都の吉益南涯から医法を学びました。帰郷後は医術をもって松井田宿のために献身し盛名をはせ、天保6(1835)年に61歳で亡くなりました。天保9(1838)年11月、門人たちにより碑が建てられました。

古賀錦山(こが・きんざん)
九州久留米の人で若くして江戸で医師村井先生に医術を学び、帰省途中に松井田宿で患者を診察しました。このため、宿民から求められ、この地に住むこととなりました。好人物で人々から信頼がありました。慶応2(1866)年に亡くなり、「天竈朝陽翁のそばに葬って欲しい」との遺言により、その傍らに葬られました。慶応3(1867)年3月、碑が建てられました。

天竈朝陽・錦山古賀の碑
市指定重要文化財
松井田町新堀1335 国道18号松井田バイパス北側

芭蕉句碑

芭蕉句碑の画像

“ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ”

元は寛政2(1790)年に刎石山中腹の「覗き」に建立されましたが、中山道が廃道となったために現在地に移転されました。坂本宿の俳人連グループ「竹睡庵連」の建立によるもので、選句、筆者は初代春秋庵白雄です。この句碑は当時の宿駅文化の盛況さを偲ぶ良き資料の一つです。

芭蕉句碑
市指定重要文化財
松井田町坂本乙930

正斎雲霧集・三川雲霧集

正斎雲霧集・三川雲霧集

「正斎」(せいさい)は近藤重蔵(こんどう・じゅうぞう:本名守重)の号で、江戸時代後期の千島列島(ちしまれっとう)方面の探索を行い、択捉島まで行きました。「三川」(さんせん)は安中藩主板倉勝明(いたくら・かつあきら)の側近の山田三郎の号です。山田三郎は松前藩(まつまえはん)に仕えていたことがあり、近藤重蔵と親交がありました。正斎・三川雲霧集(うんむしゅう)は自分宛の手紙を集めたものです。

内藤山城守政森真筆「臣軌」上下2巻

内藤山城守政森真筆「臣軌」上下2巻

「臣軌(しんき)」は、人民と家臣の手本を示したもので、中国の則天武后(そくてんぶこう)の撰(せん)です。安中にある「臣軌」は安中藩主、内藤政森(ないとう・まさもり)が書いたものです。内藤政森は元禄15(1702)年に陸奥国泉(現在の福島県いわき市)から板倉重同と入れ替わって安中藩主となり2万石を治めました。政森の次は政里(まささと)がつぎ、政里の子の政苗(まさみつ)の時、寛延2(1749)年に三河国挙母(現在の愛知県豊田市)へ転封となりました。

称名寺の鐘

この梵鐘(ぼんしょう)は、元は称名寺の境内寺院、泉徳寺(せんとくじ)の鐘でしたが、明治時代初期に泉徳寺が廃寺となったので、称名寺に帰属しました。郷土の鋳物師(いものし)、金井兵部重久(かないひょうぶしげひさ)が宝永(ほうえい)5年(1708)に鋳造したものです。

桂昌寺の鐘

この鐘は2代安中藩主、井伊直好(いい・なおよし)の奥方(おくがた)、長生院(ちょうせいいん)の菩提をともらうため、寛文(かんぶん)3年(1663)に鋳造したものですが、鐘の音の響きが悪くなったので、嘉永(かえい)3年(1850)に高崎の鋳物師、小林弥兵衛によって鋳直したものです。

甘雨亭叢書の原版及び其の他の原版

甘雨亭叢書の原版及び其の他の原版

甘雨亭(かんうてい)叢書は、15代安中藩主、板倉勝明(いたくら・かつあきら、文化6(1809)年11月10日~安政4(1857)年4月10日)が、江戸時代の学者・思想家の論文で、未刊行のものを集めたものです。叢書は全部で54集が刊行されました。この叢書および板倉勝明自身の出版物などの版木1,166枚が保管され、市重要文化財に指定されています。ちなみに、「甘雨」は板倉勝明の号で、「甘雨亭」は勝明の書斎という意味です。

安中様の大太鼓

安中様の大太鼓

安中様のお太鼓は第6代安中藩主、板倉重形(藩主在位天和元(1681)年~貞享3(1686)年)の時作られたといわれており、安中城の大手門東側にあった太鼓櫓(やぐら)にすえつけられて時を告げていたもので、一説によるとその音は埼玉県の熊谷まで聞こえたといわれています。明治4年に安中城が廃城となった後には安中小学校の玄関につるされて、ベル代わりとして使われました。1975(昭和50)年に復活した安政遠足侍マラソンのスタートを告げる太鼓として長い間、使われてきましたが、現在はふるさと学習館の1階に展示されています。

山岡鉄舟揮亳の額

山岡鉄舟揮亳の額

明治16(1883)年に安中小学校の新校舎が建設されたときに、政治家・剣術家・書家として活躍した山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)に揮毫(きごう)してもらったもので、「公立安中黌」と書かれています。山岡鉄舟は江戸幕府の役人で、勝海舟の使者として西郷隆盛のもとにおもむき、新政府軍の江戸城総攻撃を防ぎました。明治時代以降は政府に仕え、宮内少輔、元老院議官を勤めました。なお、山岡鉄舟がこの書を残した経緯は不明です。

安中小学校事務日誌二十二冊

安中小学校事務日誌二十二冊

安中小学校は明治6(1873)年に開校しましたが、明治6年から明治31年までの事務日誌22冊を一括して市重要文化財に指定して保存をはかったものです。事務日誌の名称は「日暦」、「学校日記」、「日誌」、「小学校日誌」、「事務日誌」とさまざまで、また、安中小学校の名称も「安中小学校」、「碓氷第一尋常小学校」、「安中尋常小学校」などと変化しています。なお、安中小学校が現在の場所に移ったのは明治41年のことで、それまでは500mほど西側にありました。

真光寺の鐘

原市の仁井与惣衛門が真光寺に寄附した梵鐘を、12代安中藩主、板倉勝暁(いたくら・かつとし)から「時の鐘」として打ち鳴らす許可がおりた機会に鋳直し、天明元年(1781)に撞き始めを行いました。

地蔵菩薩像

この像は原市字八本木にある地蔵堂に祀られていています。木造寄木造りで、岩座の上に趺座し、右手に錫杖をもち、左手は膝上で手のひらに宝珠を持っています。延命地蔵菩薩通形の形です。榎下城主、安中忠清(あんなか・ただきよ)が勧請したといわれています。

磯貝雲峰の碑

磯貝雲峰の碑

磯貝雲峰(いそがい・うんぽう)は九十九村下増田の内田仁太郎、ムラの三男として慶応元(1865)年 に生まれ、名は由太郎といいました。14歳の時に 母親の実家である、郷原の磯貝家の養子となりました。幼少より勉学に志し、細野東小学校の校長だった柏木義圓のすすめで明治18年に同志社英学校に学び、徳富蘆花(徳富蘇峰の弟)らと親交を深めました。明治22年に同校を卒業後、名古屋の金城女学校の校長などを勤め、明治28年に渡米し、英米文学研究に取り組みましたが、結核にかかり帰国して治療に専念しましたが、明治30(1897)年、32歳で亡くなりました。郷原の自性寺に墓があります。なお、雲峰は徳富蘆花が同志社英学校に通っていた時のことを書いた小説「黒い眼と茶色の目」の中に「片貝芳太郎」として登場します。
実家のある下増田に建てられた雲峰の碑は、古く松井田城の銘石「亀石」の表に、徳富蘇峰の撰文になる「君資性温厚、人と争はず、物を競はず・・・以下省略」の碑文と、裏面には、彼の代表作である
「早蕨を折りし昔よ偲ばれて恋しくなりぬふるさとの山」という詩文が刻まれています。

郷原の妙義道常夜燈

この常夜燈は文化5(1808)年、郷原の住人たちが結成した「妙義講」の信仰の証として建てたものです。現在は国道18号線の南側にありますが、元は北東50mほどのところにあり、中山道から妙義神社へ通じる「妙義道」の入り口にありました。
この常夜燈は台座を含めて5mほどあり、露盤の四面と笠の正面には妙義神社の紋章と同じ、十六弁の菊(八重菊)が刻まれています。

郷原自性寺の宝篋印塔

中山道の北側にある自性寺には2基の宝篋印塔があり、応永3(1396)年のものは総高95センチメートル、嘉吉3(1443)年のものは総高93センチメートルです。いずれも相輪、笠、塔身、基礎からなる関東形式の宝篋印塔です。石材は多孔質安山岩を使用しています。

刀剣 銘 上毛郷原住 憙照作之

憙照(よしてる)は碓氷郡郷原村に住んだ刀工(とうこう)で、儘田(ままだ)常八と称しました。高崎藩の刀工長谷部義重(はせべ・よししげ)(文政8年〜安政6年、墓は高崎市光明寺)の門下といわれています。憙照は天保13(1842)年に生まれ、大正12(1923)年に亡くなり、墓は海雲寺(かいうんじ)にあります。この刀の裏には「明治三年八月日」の銘(めい)があり、長さは2尺6分(62.8センチメートル)、反り1.1センチメートルです。長らく作品が見つからず幻の刀工といわれていましたが、ようやく作品が見つかり、貴重な郷土刀です。

碓氷社万国博覧会英文表彰状

碓氷社は明治11年に創立された組合製糸で、当初は座繰で糸を取っていました。生糸の品質が均一・良質になるように努力した結果、明治13年にオーストラリアのメルボルン万国博覧会で第2位、明治26年にアメリカ合衆国のシカゴ万国博覧会で受賞し、その表彰状が市重要文化財に指定されています。

小野直文書

小野直(おの・ちょく)は天保4(1833)年、安中藩士小林友七の六男として生まれ当初、小林富三郎といいましたが、嘉永(かえい)(1851)年に小野家の養子となり、小野富三郎となりました。安中藩では御用部屋書役、御作事添奉行を歴任し、明治維新後は名を富三郎から直と改め、群馬県第11大区副戸長、碓氷郡役所書記を勤めました。この小野直氏が残した文書は、安中藩政記録や明治初期の士族生活、碓氷郡役所関係文書、安中城や安中藩江戸上屋敷・中屋敷、碓氷関所などの図面などがあり、幕末から明治時代前半までの貴重な史料です。

郷原村の検地竿と水帳・免定

今井家は代々郷原村の名主を勤めた家で、ここに寛文(かんぶん)4(1663)年の検地(けんち)で使われた検地竿が残されています。寛文検地は安中藩主水野備後守元綱(みずのびんごのかみ・もとつな)が寛文3~4年に領内すべての村で実施したものです。また、寛文4年の郷原村一ヶ村の水帳(みずちょう)(=検地帳)が全冊保存されています。さらに免定は寛永(かんえい)9(1632)年からはじまって149状が残されており、安中藩の農政の歴史を調べる上で貴重です。

八塔石紅地蔵(はっとうせきべにじぞう)

八塔石紅地蔵の画像

八塔石紅地蔵の画像

八城の吉祥寺境内にあり、元禄12(1699)年、小幡藩の税が高いことを江戸幕府に訴え、死罪は免れたものの村を追放された14ヶ村の代表8名の恩を忘れないため、建立されました。

八塔石紅地蔵
安中市指定重要文化財
安中市松井田町八城168 吉祥寺

古城遺跡(後期旧石器時代)

古城遺跡(後期旧石器時代)の画像
古城遺跡(後期旧石器時代)の画像

板鼻の古城住宅団地建設に伴う発掘調査で確認されました。後期旧石器時代初めの頃(約3万年前)の狩猟キャンプの跡で、安中市内ではもっとも古い人類の遺跡です。現在の地表から約 4mも下のローム層中から発見されたもので、鹿児島湾の大噴火で飛んできた火山灰層(姶良火山灰)の下から黒曜石や黒色安山岩などで作られた石器がたくさん発見されました。この中には狩猟に使ったナイフ形石器や局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)などが含まれています。

古城遺跡出土旧石器
市指定重要文化財
現在はふるさと学習館2階常設展示室に展示

咲前神社太々神楽・鷺宮太々神楽保存会

咲前神社太々神楽の画像

咲前神社太々神楽は、神社の春祭りに奉納された神楽で、神楽殿の額から文化12(1815)年以前に始まったと考えられます。伝承では高崎市石原町の小祝神社から伝えられたといわれています。神楽の構成は笛吹3名、太鼓打1名、鉦鼓1名、舞者7名です。舞者は各種装束を着て、面をかぶり、採物を持って舞います。舞は12座あり、順番に猿田彦大神(四方祓の舞)、伊佐那岐伊佐那美命(国造りの舞)、鹿島大神香取大神細女命(大神慰の舞)、大刀雄大神(天の岩戸)、誉田別大神(弓引の舞)、稲倉大神(苗代種子蒔の舞)、天津摩良大神(刀鍛冶の舞)、両刀天狐(ヒョットコ餅投の舞)、
松尾大神(神酒造りの舞)、素佐之男大神(大蛇退治の舞)、事代主命(鯛釣りの舞)です。現在は咲前神社太々神楽保存会により毎年4月1日に神楽殿で奉納されています。

咲前神社太々神楽・鷺宮太々神楽保存会
市指定重要無形文化財
鷺宮3308 咲前神社

八城人形浄瑠璃

八城人形浄瑠璃の画像

八城人形浄瑠璃城若座による3人遣いの人形浄瑠璃で、元禄12(1699)年に建立された八塔石紅地蔵の供養のため始められたといわれています。義太夫節と三味線に合わせて演じられます。明治18年、地元に城若座が設立され、現在は毎年10月中旬に八城西住民センターで定期公演を行っているほか、安中市内の小学校で伝統芸能教室を実施しています。

八城の人形浄瑠璃(附・頭50体)
市指定重要無形文化財
松井田町八城 八城西住民センター

仙石因幡守の石祠及び頌徳碑

仙石因幡守の石祠及び頌徳碑の画像

仙石因幡守久俊は四千石の旗本で、東上磯部村から下磯部村にかけて領地を有していました。もともと、柳瀬川(やなぎせがわ)だけでは水田に引く水が充分でないため碓氷川から用水を引こうと、西隣の領主に交渉しましたがまとまりませんでした。そこで幕府に願い出て領地をよそへ移し、磯部にあった久俊の旧領を天領(てんりょう)にしてもらい、幕府が主体となって寛文13(1673)年、人見堰(ひとみぜき)は完成しました。磯部の領民は久俊を稲葉大権現(いなばだいごんげん)として生祠(せいし)にして祀り、感謝しました。その後、嘉永5年に亀田鵬斉の子、綾瀬の撰文で頌徳碑が建てられました。

仙石因幡守の石祠及び頌徳碑
安中市指定史跡
安中市一丁目14番

簗瀬八幡平の首塚

簗瀬八幡平の首塚の画像

 簗瀬八幡平の首塚は、6世紀後半の横穴式石室を主体部とする円墳です。昭和27年、東京大学人類学教室の鈴木尚教授の発掘調査によって、後世に石室の外から穴が掘られ、人骨(ほとんど上顎以上の頭骨)を埋めたことがわかりました。頭骨は150体分以上あり、性別の判明する38体の内訳は、男27、女7、幼児4とわかりました。骨は天明3(1783)年噴火の浅間山火山灰層の下にあり、頭骨の特徴から中世(鎌倉時代~室町時代)の骨と判明しました。
 また、平成9年の発掘調査では古墳の南面で板碑7基が確認され、そのうち1つには「建武4年」(1337)の銘がありました。

簗瀬八幡平の首塚
安中市指定史跡
安中市簗瀬753

野殿天王塚古墳

この古墳は、岩野谷丘陵の北東縁にある円墳です。現在の規模は直径約15メートル、高さ約5.5メートルですが、当初は直径20mくらいであったと推測されます。主体部は、自然石を使用した両袖型横穴式石室で、南に開口しています。石室の全長は11.18メートルで、玄室の奥壁が古墳の中心にあたるようになっています。石室の構造に高崎市八幡町の観音塚古墳(6世紀末~7世紀初頭築造)の影響がみられ、同時期につくられたものと考えられます。

元助遺跡義士石像・義士供養塔

元助遺跡義士石像・義士供養塔の画像

赤穂義士(あこうぎし)のひとり片岡源五右衛門高房(かたおかごえもん・たかふさ)の忠僕、元助(もとすけ)は、下秋間村の生まれで、四十七義士とその主人、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)夫妻の冥福(めいふく)を祈り建立しました。元助は東上秋間村久保の観音堂に仮住まいして寄付を集め、岩戸山の岩棚の下に二十数年かけて石像を完成させ、その後、久保に供養塔を建てたと伝えられます。

元助遺跡義士石像・義士供養塔
市指定史跡
義士石像:東上秋間3197 岩戸山中腹
義士供養塔:東上秋間甲2041 久保観音堂

荒木寅三郎の墓

荒木寅三郎は慶応2(1866)年、板鼻に生まれ明治20年に東京帝国大学医学部を卒業し、ドイツに留学後学位を授けられて帰国しました。その後、京都帝国大学医学部教授、京都帝国大学学長などを歴任、その後、学習院院長を勤め枢密院(すうみついん)顧問官に任命されました。

後閑城址

信濃国(現在の長野県)佐久郡の依田忠政(よだ・ただまさ)が、嘉吉(かきつ)元(1441)年に築城したと伝えられ、その子政知、孫の光慶(みつよし)が居城したと伝えられます。光慶が板鼻に移ったのち、北条政村が居城としましたが、永禄10(1567)年に武田信玄が後閑(新田)信純(のぶずみ)にこの地を与えました。武田氏の滅亡後、信純の子重政・信久は後北条氏に属しましたが、天正18(1590)年に豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、後閑城は廃城となりました。

太山融斉の墓

太山融斉(おおやま・ゆうさい、寛政6(1794)年~文久3(1863)年)は、常陸国信太郡(現在の茨城県稲敷郡美浦村)出身で、江戸浅草田原町で町儒者をしていたところ、天保9年、安中藩主板倉勝明(いたくら・かつあきら)に招聘され、藩儒として藩校造士館の教授を勤めました。また、嘉永5年には、地球儀を5個製作したといわれ、そのうちの2個が現存し、市重要文化財に指定されました。また、書にも優れ、谷津の庚申塔や神社の幟旗が残されています。

山田三川の墓

山田三川(やまだ・さんせん、文化元(1804)年~文久2(1862)年)は通称を三郎といい、伊勢国三重郡平尾村に生まれました。江戸の昌平坂学問所に学び、舎長にまでなりました。その後、松前藩に仕えましたが突然、暇を出され、下総国水海道(みつかいどう)に隠棲しました。そこで、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)が召しかかえようとしましたが、三川が辞退したので、斉昭は親交のあった安中藩主、板倉勝明(いたくら・かつあきら)に紹介し、嘉永5年に安中藩に迎えられました。三川は藩儒として安中藩校の造士館(ぞうしかん)の教授を勤めるとともに、養育奉行、代官、郡奉行などの藩の役人としても活躍しました。

漆園の記碑

漆園の記碑の画像

安政2(1855)年、第15代安中藩主板倉勝明(いたくら・かつあきら)が、漆で産業を興すため領内の空き地に漆苗百万本を植えさせ、利益があがったらその利益を4分割して、土地の所有者への支払い、漆植樹の費用、藩の収入、を貧民の救済にそれぞれ当てることを石に刻み、後世の農を司る者(藩主や藩の役人)がこれを破らないよう残したものです。この碑の撰文は山田三郎(号・三川)が行い、安政3年に安中城本丸内に建てられました。現在は、新島襄旧宅北側の古墳の上にあります。板倉勝明が安政4年に亡くなったため、安中に漆産業はおこりませんでしたが、いかに藩政の立て直しや貧民救済に心を配っていたかを今日に伝えるものです。

漆園の記碑
市指定史跡
安中一丁目7ー30 安中6号墳墳丘上

石川忠房の生祠之碑及び生祠

石川忠房の生祠之碑及び生祠

石川忠房(いしかわ・ただふさ、宝暦5(1755)年~天保7(1836)年)は旗本で、江戸幕府の役人として目付、作事奉行、勘定奉行、道中奉行などを歴任しました。文政2年から文政11年まで、忠房は勘定奉行と道中奉行を兼務しました。これより先、安中宿は耕作する土地が付属していないため、中山道の宿場がそろえる規定の半分の人足25人、馬25疋ですませてきましたが、天明3(1783)年の浅間焼けの復旧費用として中山道の他の宿場と同じ助成金をもらったために人足50人、馬50疋を勤めなければならなくなり、安中藩から助成も受けましたが困窮しました。このため、文政5(1822)年に安中宿が道中奉行石川忠房に窮乏を訴え、文政5年(1822)から25年間、定助郷(じょうすけごう)19ヶ村の外に24ヶ村を増助郷(ぞうすけごう)として追加しました。安中宿民は牛頭天王社(現在の群馬銀行安中支店)に生祠を建て、忠房を生き神として祀りました。その後、天保5(1834)年に安中藩主板倉勝明(いたくら・かつあきら)が安中城本丸に生祠之碑を建立しました。現在は、生祠・生祠之碑ともに伝馬町公民館北にある三社神社の敷地に祀られています。

井伊直政正室の墓・直好生母の墓

徳川家康四天王の1人である井伊直政の正室は、松平周防守康親(すおうのかみ・やすちか)の娘で直政の死後、出家し東梅院(とうばいいん、後に唐梅院)と称しました。初代安中藩主、井伊直勝の生母にあたります。井伊直勝は初め直継といい、父直政の死後、彦根城を築城しましたが、徳川家康の命により慶長19(1614)年に彦根を異母弟の直孝に譲り、碓氷郡関長原の関と、吾妻川の杢ヶ橋(もくがばし)関所の警護のために安中に下り、この地に館をつくり、中山道沿いの町割りを整備しました。元和9(1623)年には関長原から上横川に、関所は移されました。直勝の子直好(なおよし)(初め直之(なおゆき))の母は直勝の側室で、隆崇院(りゅうそういん)と諡されました。唐梅院と隆崇院の墓は大泉寺にあります。

寒念仏橋供養塔

享和(きょうわ)2(1802)年、板鼻宿の木嶋七郎佐衛門(きじま・しちろうざえもん)が旅の安全を祈り、中山道を横切る小川にかけた石橋の供養塔です。なお、「寒念仏橋」という名の由来は、寒中に念仏を唱えて回り、得た浄財を橋を架ける費用に充てたことによります。

便覧舎跡

上野尻(かみのじり)で醸造業を営んでいた湯浅治郎(ゆあさ・じろう)が明治5(1872)年、日本で初めて私設図書館、便覧舎を設立しました。和漢の古書や新刊書を収集し、自由に閲覧させました。

館の百体馬頭観世音

若宮八幡宮の南側に、平面的に北に中尊(ちゅうそん)を建て、南北に長い楕円形状に102体の馬頭観世音が並べられています。中尊の銘から、文政9(1826)年に建立されたと考えられます。

柏木義円の墓

柏木義圓(かしわぎ・ぎえん)は、新潟県三島郡与板(よいた)の西光寺(さいこうじ)に生まれ、東京師範学校を卒業後、碓氷郡細野西小学校の校長となりました。そこで新島襄の存在を知り、同志社英学校に学び、卒業後は同校に勤めていましたが、明治30(1897)年に安中教会の第5代牧師に迎えられました。翌年から「上毛教界月報(じょうもうきょうかいげっぽう)」を発行し、キリスト教界の動向だけではなく、日清・日露戦争などの日本の朝鮮半島や中国大陸への侵略や国家主義教育に反論し、また、戦争は最大の罪悪として非戦を唱えました。そのため、上毛教界月報は昭和11年に459号で廃刊となるまで、幾多の発禁処分や罰金を受けました。また、牧師在任中の大正8(1919)年には、湯浅治郎らと協力して新島襄召天30年を記念して新島襄記念会堂を新築しました。なお、安中教会の信徒により昭和10年に義圓の書斎として建てられた建物が「義圓亭」として残されています。柏木義圓は昭和13年になくなり、夫人とともに西広寺に葬られました。

後閑3号墳

九十九(つくもがわ)川左岸の沖積低地に築かれた円墳で、規模は基壇部で直径20メートル、盛土部は直径12.6メートルです。主体部は自然石乱石積の平面T字型横穴式石室です。また羨道の奥から玄室にかけての壁には赤色塗彩がされています。こうした特徴から、この古墳は簗瀬二子塚古墳が造られたのと同じ(6世紀初めごろ)に造られ、被葬者は簗瀬二子塚古墳と頂点とする地域勢力の中間支配者層であったと考えられます。

後閑3号墳
群馬県指定史跡
安中市下後閑字山王前

万福原古墳(秋間12号墳)

秋間丘陵の頂上部付近に位置します。7世紀後半に造られたもので、直径約12メートル、高さ3メートルの円墳です。主体部は地元で秋間石と呼ばれる、溶結凝灰岩の截石(きりいし)切組積横穴式石室です。この積み方を採用する古墳は市内では秋間川流域を中心に数基しか確認されておらず、群馬県でも珍しいもので、当時の先進的な技術を知り得る立場にあった豪族(あるいは役人)の墓と考えられます。

簗瀬二子塚古墳

簗瀬二子塚古墳

簗瀬二子塚古墳は、安中市域に初めて出現した大形の前方後円墳で、古墳時代後期(6世紀初頭)に築造され、この地域一帯を支配した有力者の墓と推測されます。古墳の主体部には横穴式石室が採用されていますが、これは群馬県さらには関東地方でも最も古い特徴を備えており、学術的にもとても重要なものです。規模は、2段築造で全長約80メートル、後円部径は約50メートルで高さ約8メートル、前方部幅は約60メートルで高さ7メートル、同時代の群馬県では最大級の古墳です。

石室

本墳は墳丘の残りがとても良好だったことから、古墳の保護を目的とした整備を行いました。墳丘の形状を変えることなく、古墳全体に盛り土を行っています。石室の全長は11.54メートル、羨道長は7.47メートル(幅0.67~0.95メートル)、玄室長は4.07メートル(幅2.16~2.32メートル)高さ2.20メートル。天井石には地元の溶結凝灰岩が使用され、近くを流れる碓氷川の川原石を使用している壁石には赤彩が施されています。
埴輪は円筒・形象があり(人物や馬など)、特に墳丘第1段平坦面では埴輪列が確認されています。副葬品としては、玉類(金箔ガラス3連玉、勾玉、水晶製丸玉など)、装身具(金銅製耳環など)、石製模造品(鎌・刀子・斧・臼玉など)、武器類(鉄鏃・直刀・小札)、馬具(杏葉・辻・金具など)、須恵器などがあります。

簗瀬二子塚古墳
国指定史跡
安中市簗瀬字八幡平756‐1

大欅

大欅

熊野神社の境内にありますが、この地がかつて野後(のじり)郷と呼ばれていたころからの老木で、樹齢は1,000年以上ともいわれています。かつて落雷の被害を受けて木が傾いたため、鉄柱により支えています。安中藩主、板倉勝明が編纂した郷土地理誌「安中志」によれば、「大榎 社地にあり中うろにして近郷には珍しき大木なり」と記されています。榎(えのき)も欅もどちらもニレ科の落葉高木で、当時は明確に区別されていなかったようです。

安中小学校の大いちょう

安中小学校の大いちょう

安中小学校が明治41(1908)年、現在の場所に校舎を移築した際に、旧校舎の場所から移植したものと伝えられます。当時、すでに奈良の大仏くらいの大きさ(約16メートル)であったといわれ、現在の高さは24メートルです。一見すると1本のようですが、実は7本の寄せ植えです。

行田の彼岸桜

行田の彼岸桜の画像

樹齢約400年と伝えられ、妙義道のそばにあり、根元には山の神が祀られています。目通りは約6メートル、樹高は10メートル。幹は空洞化していますが樹勢は良く、遠来からの見物客も多く訪れます。古来より、妙義道端にある「山の神の彼岸桜」として有名で、かつては樹下に辻堂があり「横野の原」の花の象徴であったとも伝えられます。

行田の彼岸桜
市指定天然記念物
松井田町行田987ー3

磯部神明宮のヒイラギ

磯部神明宮のヒイラギ

このヒイラギは、かつてこの地にあった神明宮の御神木で、樹齢約250年といわれています。高さ11.5メートル、目通り2.1メートルの大きさで、県下でも稀にみる老巨木です。

木馬瀬の福寿草自生地

木馬瀬の福寿草自生地

上増田字木馬瀬(ちませ)を流れる増田川左岸の河岸段丘上にはフクジュソウの群落があり、古来よりあるものと伝えられます。幕末の勘定奉行だった小栗上野介が、領地である権田(現:高崎市倉渕町権田)へ引き上げる途中、この地に幕府再興の軍資金を埋めましたが、多くの小判が日の目を見ないことを嘆いて黄金色のフクジュソウとなり、地上に出てくるという言い伝えが残ります。福寿草の見ごろは例年、2月中旬から3月上旬ごろです。

木馬瀬の福寿草自生地
市指定天然記念物
松井田町上増田2051ー3

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