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赤穂義士四十七士石像

ページID:0002088 更新日:2023年7月18日更新 印刷ページ表示

市の北西部、東上秋間の岩戸山には、赤穂義士・片岡源五右衛門の下僕・元助が浅野長矩夫妻と四十七義士の供養のため、20年の歳月をかけて建立した47の石像と石宮があります。
毎年3月25日には、供養祭が行われます。

赤穂義士四十七士石像の画像

岩戸四十七士石像と元助

元助は上州下秋間字館の百姓三右衛門の長男に生まれた。幼にして母を失った為め三右衛門が後妻を迎えたので、家庭が円満に行かずついに家出して、僅かの金を懐に伊勢参宮を志した。山田付近で路銀を使い果たして、道行く人の情けにすがっていたのを縄張りを荒すと附近の乞食共にいじめられていたところへ通りかかった浅野内匠頭の代参に伊勢神宮へ来た片岡源五右衛門に助けられ、その下僕となって赤穂に連れられ、主君大事と奉公に励んだ。

元禄14年3月勅使下向に際して、吉良上野介義央に辱められた浅野長矩は終に松之廊下で義央に対して刀傷に及び長矩は即日切腹、浅野家は断絶となり、赤穂城引渡しとなった。片岡は浪人となり、元助を伴って江戸へ下り、吉良への復讐の期をねっらっていたがもちろんその心中を明かさなかった。時至って元禄15年12月13日討入りの前夜、突然片岡から解雇を申渡された元助は悲歎のあまり自殺しようとした。片岡もその忠心を認めて討入りのことを明らかにしたが、そのお伴は許さなかった。義士が本懐を遂げて切腹して相果てたので、元助は泉岳寺の墓前で泣く泣く七七の供養を行い、生まれ故郷の秋間村に帰ってきた。元助は東上秋間字久保の観音道を仮寓して、剃髪して道心となり、名を音外坊と改め、諸所を巡錫して大方の喜捨を受け、その零細を蓄えて20余年。ついに東上秋間岩戸山の霊地に、長矩夫妻と四十七義士の石像を建立し、瓢然と諸国巡錫に出て、二度と故郷に姿を見せなかったが、房州和田浦長香寺に足を止め、村民を済度し、その天命を知って、黒滝不動の側に岩窟を掘ってその中に入り、自分から石蓋をおおい、「予念ずれば火難諸災難を除け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」と遺言し、念仏鉦声裡に三七、二十一日間にて入定した。時に享保17年9月30日、享年53才であった。花園黒滝不動の幽地に入定の箇所を選び、村民を火難より救わんとする三七、二十一日間の最後の祈念を終え、静かに瞑目した向西坊元助は、いまに鎮火霊神と称えられている。秋間村では明治時代に入り、戸塚信太郎、盛太郎の父子二代、帰らぬ元助の行方を尋ねること数十年。遂に盛太郎氏は元助有縁の地が外房和田浦花園にあることを知って、昭和16年花園に長香寺を訪ねられたところ、青年団建立の碑に「元助は石州浜田の人なり」とあるをみて、その相違の甚だしきに驚かれて帰郷された。その後、盛太郎氏は昭和19年2月他界され、元助の研究は中断されていたが、筆者(中沢)はこれを知って、昭和28年8月長香寺を訪ねて現地を見聞し、島根県浜田市へ照会したところ、元助を知るものは一人もなかった。以後10年を経過しても元助に関する発見はなにもない。そこで、筆者は昭和37年再び長香寺を訪ねて、この旨を報告し、明年秋間有志を案内することを約した。昭和38年3月元助供養の日、戸塚盛太郎嗣子武七郎・元秋間村長入沢安太郎・安中市議会議員戸塚梅太郎・秋間公民館長石井正雄・秋間婦人会長有坂くに・その他有志多胡栄太郎・原田秀吉・安中市文化財調査委員木暮勝弥の諸氏を案内して、花園有志と懇談し元助の生地は秋間であるとの諒解を得た。翌39年3月15日、花園の有志と青年団員10名を秋間に迎え、長岩の義士像前で盛大な供養を行い、次いで4月11日、秋間より同行12名、長香寺の供養会に参列し、碑面が「元助は上州秋間の人なり」と訂正されたのを確認した。よって、安中市教育委員会では、9月12日附をもって「安中市指定史跡」とした。秋間では史跡保存会を設立し、元助の供養日を3月14日と定め、花園出身の石井治郎吉氏より元助座像(木彫)2躰の寄贈を受け、久保の観音堂と、元助生地の館に岩屋を作って安置し、毎歳、両所の供養日には互に代参者を派遣して、永く元助の顕彰と供養を期している。

〜安中市郷土史家 中沢多計治氏稿中より〜

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表1
所在地 安中市東上秋間岩戸3197