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簗瀬八幡平の首塚

ページID:0002123 更新日:2023年7月18日更新 印刷ページ表示

簗瀬八幡平の首塚の画像

この首塚は、碓氷川北岸の河岸段丘上に位置する円墳(「上毛古墳綜覧」では旧原市町12号墳)の墳丘に幅1メートル、長さ2メートルの穴を掘り、そこにおよそ150体分の頭蓋骨を埋めてあったものである。昭和6年3月10日に近くに墓参りにきた小学生によって偶然発見され、その後、村の有志によって万霊堂を建立、骨を慰霊した。昭和27年12月に東京大学人類学教室鈴木尚によって調査され、調査の結果、古墳の石室の外側に約150個分に相当する頭骨が山と積まれ、その上を天明3年(1783)の浅間A軽石がおおっていることがわかった。不思議なことには頭骨には下顎がなく、四肢骨も発見されないところから多分どこか別の場所に埋葬されていたものをここに仮葬したものと推定される。これらの頭骨を人類学的に研究したところ、今の日本人に比べて長頭・短顔・広鼻で鼻の付け根が低く、中世の日本人の特徴を示している。これらの人骨には、刺創もあるところから考えて恐らく戦国時代に近くの城が陥落する際の犠牲者と考えられるが、当時遺体をまとめて埋葬したものを、江戸時代中期またはそれ以前に村民によって偶然発見され、ここに改葬されたものと思われる。
この首塚がいつ誰によって造られたかを示す史料は残されていないが、永禄4年(1561)に武田信玄がこの付近帯に八幡平陣城を築き、安中城と松井田城の間を分断した。当時、松井田城主安中忠政、安中城主安中忠成親子は、箕輪城主長野氏に属し、武田信玄と戦いを交えていた。忠政は永禄2年に野後に城を築き、安中城と改めた。安中城は嫡子の忠成に預け、忠政自信は松井田城を守っていた。また、付近には簗瀬城跡(城山稲荷)滝山城跡(聖明寺)、榎下城跡(久昌寺)など城跡が多い。この首塚は安中市の中世を物語る遺跡であり、首塚で出土した人骨は貴重な人類学上の資料である。